何をしとんや
神戸市民として
今回の小学校教諭の事件は地元民として本当にがっかりする。神戸市の人口が減ってきているという記事を前に投稿したが、ここ最近神戸市はいろいろと暗いニュースが多い。
昔から神戸市は保守的だと聞いて育った。色々と古き悪しき習慣もそのまま慣行されているようである。デジタル化した社会では、もうそんな時代遅れの悪しきものは容易に暴かれる時代なのだ。日本自体が革新をあまり好まない国なのだろうが、悪いものは改善していかないと何の向上にも発展にもならない。
どんな仕事であれ趣味であれ、ひとかけらの悪行を働いている人間がいたからといって、全ての人間が悪い訳ではない。ほとんどの人間は一生懸命真面目に目の前の事に取り組んでいるものだ。なので、ひとかけらのそんな人間に被害を被るのは本当に残念でならない。
触れ合い
二十年位前には起きなかったような忌まわしい事件が最近増えている。コンピューターが身近なものになり、コミュニケーション手段も変わった。直接出会わなくても、画面上で人同士の交流ができる。しかし画面を通してのコミュニケーションでは、実際に足を運んで対面して人と交流するということで得られる様々なものを得られない。
自分がスマホなりパソコンなりコンピューターを使いこなしていると当たり前に思っていることが、実際はそれらに使われたり操られているだけかもしれないと勘ぐることも必要だ。仕事上必要であれば仕方ないが、家に忘れてくると不安だとかはある意味依存している。仕事で使っている人でも仕事以外で依存してないか冷めた頭で考えてみるのもいい。
つまりあまりにも機械的な交流が増えてしまったために、人間が人間らしい思いやりや想像力などの豊かな感情や感性を失いつつある。そして人間らしい交流で育まれるはずのそのようなものが育たず、忌まわしい事件が起こるのではと感じる。
もちろん今は近未来の超デジタル化社会に向けてへの過渡期なのだろうと思う。あまりにも急激にデジタル化してしまったために、原始的・動物的・本能的な部分が対応しきれなくて、色々な不具合が出ているのだと思いたい。
余程の地球規模の災害が起こらない限り時代はそちらへと進んでいくのだから、何れはその社会に対応出来るように人間も変化(進化?)していくのであろう。
しかしそれにはもっと時間が必要である。
プライベートは
個人情報が厳しく規制されてきた昨今だが、デジタル化社会ではプライベートなんてあってないようなものだと思っている。
例えば報道のプロよりもその場に居合わせた素人のほうが、いち早く事件をオンタイムで世間に知らせられるような時代だ。そして拡散も一瞬だ。
色々なことを隠すことが難しい時代はすごい方々にとっては大変だと思うが、ごく普通の一般人は諦めしかない。隠したい情報も探し当てられてしまうが、自分が探し当てることも出来るという、ある意味ではフェアなのかもしれない、と気休めに思う。くれぐれも人の道に外れることはせずに生きていくだけである。
神戸市は
上っ面ばっかり取り繕うとしているように見える。私が子供の頃神戸市は、とても成功した都市であった。他の都市から勉強に沢山の方々が来られていた。しかし今では過去の栄光の上に、ただ何十年もあぐらをかいていたのではないかと思う。今ではすっかり勢いも影を潜め、市民も何となく覇気がないように感じる。もちろん、阪神大震災で甚大な被害を被った後神戸の様々な産業が大打撃を受け、また国の不況と相まって表面上は復興したかのように見えても、後々尾を引いている部分もある。しかしその後の他の地域での災害があったり、いつどこでどんな災害が起こってもおかしくない今、他の地域と条件は同じだと思う。プライドなどは置いといて、他の都市や町や他国の新しい成功例を謙虚に学び噛み砕いて、子供や若者が希望を持てる、神戸の独自の新しい街づくりを目指してほしい。
自分自身は日々本当に小さなことしか出来ないので、あまり激しく批判はせずに、この辺で。