阪神淡路大震災から25年
25年前の1月17日の午前5時46分52秒…
揺れで先に目覚めた主人に促され、車に乗り自宅の神戸市北区から428号線を南へ兵庫区まで下りた。
今考えると当時まだ若かった私達は、何も考えずによく有馬街道を下ったものだったなぁと思う。しかも私は長女を妊娠中であった。しかしなんとかがけ崩れや余震にも合わずに街へ下りられた。
九死に一生
神戸市の区画整理で兵庫区から北区に引越したのが、ほんの3週間前だったのだ。
有馬街道を下りて目にした光景は、大規模な映画セットのような家屋倒壊が激しい街の様子だった。それが現実だとはまるで信じられなかった。今でも映像のように頭の中に残っている。
兵庫区の自分の実家や主人の勤務先、親戚、知人…。
家屋の倒壊、道路の陥没、どこからかガスが漏れた匂い…。その時点では火事はさほど起こっていなかったと記憶している。自分の気が動転してたからかもしれないが、人の声や物音が目立って車や機械音がなかったせいか、変に静かだったような気もする。
近しい人の生存は確認できて暫し安堵した。
引越し前の木造ハイツは2階が1階になった状態の全壊だった。そこにいたなら、大けがか命を失っていただろうと思う。
お風呂の水
引越し先の北区は発生地から離れているため、水道は1~2日で復旧、ガス、電気もさほど支障がなかった。それでも2日水道が止まっただけでも、トイレの排水に困った。しかし、たまたま震災の前日にお風呂を洗ってなくて湯舟に水が入ったままだったのでて、手桶で水を汲みトイレを流すことが出来た。それ以来、お風呂は入る直前に洗う癖がついた。
父はたまたま病気で兵庫区の総合病院に入院しており大丈夫だったので、親類をしばらく預かった。それから毎日のように実家を片付けに行ったり、何度かおにぎりを作って持って行ったりした。その地区は次第に支援物資も増え、とりあえずの食べ物は皆に当たるようになっていった。ちょっとパニックになっていた?野良猫が変な行動をしていたのが記憶に残っている。
災害で間接的に
直接ケガをしなくても、その後の生活の激変で様々なストレスを抱え、病気を発症してしまい、亡くなられた方も沢山おられると思う。
私自身、電車が長期間止まってしまい、出産予定だった産院を変えざるをえなかった。しかも近所の総合病院での初産があまりいいお産にならなかった。また主人も震災後の仕事が忙しくなり、私自身の子育てのストレスも多くなってしまった。
もし震災がなかったら…被災地の全ての人の人生は違ったものになっていただろう。しかし過去に戻ることは出来ないので、未来をより良く生きていけるよう努力するしかない。
被災地だけじゃなく
この25年でいろいろな時代の変化が世界中であったと思う。特にコンピューターが普及したことが、人間にとっては生活にかなりの影響を与えた。
時代の激しい変化の中で生きていくことや、近年多くなった自然災害や犯罪の中で、いかに逞しく生きていけるかが、自分にとっての課題である。
自然災害や、人災はいつ起こるか分からないし、巻き込まれないとは言い切れない。
なので、一日一日そのひと時を納得して過ごせるようになりたいものだ。
阪神淡路大震災で亡くなられた皆さまにご冥福をお祈り申し上げます。