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※新からだの調べこころの詩では思いつきをつぶやかせていただきます。
面白くない話は飛ばしてくださいね!
やっと晩秋らしく寒くなりましたね。
自然の循環サイクル
家庭菜園は無農薬無肥料を目指していて、今年はほとんど有機肥料は与えなかった。なのでもちろん害虫が沢山寄ってくる。見かけなくなっているというミツバチも、紫蘇や胡瓜やカボチャのなどの花にチョイチョイやって来ていた。初夏~初秋まではブーンブーンと音がするたび、ヒヤヒヤしながら畑作業をしていた。ミツバチは人の気配を感じると次第にいなくなる。クマバチはスピードと色、アシナガバチは大きさやホバーリングする怪しさを感じてハッと避ける。今年は1度だけスズメバチが飛んでいて慌てたものだ。ほかの小さな蜂は恐れずに…アブは恐れつつ…てハチの話ではない。
カマキリやハサミムシやクモなどは肉食で野菜を食べずに害虫を食べてくれるので殺さない、益虫だ。しかしバッタやカメムシ、アブラムシやアオムシやイモムシは育てている野菜をダメにしてしまうので、捕殺する。しかし2年目でも虫を殺すのは嫌なものだ。昨年後半からはもっぱら、土に穴を掘って埋め、その上に石を載せて踏んずけるという圧死を採用している。大事に育てている野菜を守るために、土に還っていただく。虫にしたら甚だ残酷な一生だが、運が悪かったと思ってもらうしかない。しかしむやみに虫を殺したくはない。農薬以外で虫が来ない方法を探し、無肥料栽培をしたいと思うようになったのだ。(窒素肥料が多すぎると余分な窒素が葉に出てきて、それを察知した虫が寄ってくるそうだ)
次のシーズンの土作りの際、虫のかけらは見当たらないので、土に埋めると1年以内には分解されているようだ。つまり虫の死骸は微生物のエサになっているということ。人間も一生物としたら、死後は土葬して微生物のエサになってもらうほうがよかったのだが…。昔は日本でも土葬されていたようだが、人間が増えすぎて土地がないようだ。今でも一部で土葬が行われている地方もあるらしい。しかし過去に土葬が原因で地下水が汚染され、それによる感染症が発生したことがあったらしい。なので今では火葬だが、人間は自然の循環サイクルの役に立っていないということになる。もちろん自分自身も何も役立つ行動はしていない…。
全ては人間自身のために
排泄物も汚物として処理され、循環サイクルの役に立ってはいない。人間は自然から搾取するばかりであまり与えてはいないようだ。それはもともと生物として非力なほうなので、種の保存には周りの環境を自分のいいように変えるしか、手段がなかったのかもしれない。例えばどんな過酷な環境にも負けず?に生きながらえてきた、ゴキブリ等と対極なのかもしれない。(もちろん様々な原核生物や真核生物も生き延びてきた)
自然と離れて
そんなに時間は経っていないのだが、人間は少しずつ自然から遠ざかっていっている。自分の半生を振り返ると、特にコンピューターが普及し始めた頃から、急速に生活が変わっていったような気がする。自分が幼かった昭和の時代に、大人になればその当時の大人が暮らしている世界が待っていると想像していた。ところが大人になった時にはどんどん世界が変わっていしまっていて、昔想像していたような世界とは全く違っていたのだった。平成は色々な意味で変革の時代だったのかもしれない。この年になって高度成長時代の昭和はいい時代だったのだなぁとしみじみと思う。
考えさせられたコラム
先日ネットでみたネットニュースに、死に行く時には涙を流され惜しまれながらなくなるが、ご遺体となった瞬間に人は冷たくなるといった内容のものがあった。遺体ホテルの建設反対というニュースだ。ご遺体は忌み嫌われ受け入れにくいものだが、何度も他者の死に触れることにより、いつかは自分も死ぬということの受容が出来るようになるのだそうだ。こんな当たり前なことが、人の死に触れることが少なくなった今では怖いことになってしまっている。確かに生物は動物でも植物でもそのままだと物質が腐っていき、悪臭を放ち病原菌や害虫などの害になるものを放つ。なのでご遺体になった時からイヤなイメージが沸いてくる。しかし大きな視点で見れば、畑の虫や野菜と人間も大して変わらないような気がするのだ。
たったそれだけのもの
もちろん本当は色々と全然違うのだが、生き物は「生まれて死ぬ」というシンプルな現実がそこにあるだけだ。
いつ命を失うか誰もわからないので、一日一日を精一杯生きるしかないのだといつも思う。死ぬ瞬間に悔いのない人生だったと感じるために。